生い立ち

大橋直久(おおはし・なおひさ/Ohashi Naohisa)は1951年(昭和26年)、広島市佐伯区旭園に生まれた。

戦後復興の只中にあった広島で、彼の家庭は決して裕福ではなかったが、食卓だけは常に温かかった。父は市内の運送関係の仕事に就き、母は家計を支えるため内職をしながら、毎朝欠かさず弁当を作った。その弁当の中心に、必ずあったのが俵形のおにぎりだった。

直久にとって、おにぎりは「特別な料理」ではなかった。空腹を満たし、学校へ行く力をくれる、生活の一部だった。

幼少期

幼いころの直久は、活発というより観察好きな子どもだった。近所の大人が弁当箱を開くと、どんな形のおにぎりが入っているかを、無意識のうちに見ていた。

「三角形、俵形、丸いもの。なぜ形が違うのか」

三角形、俵形、丸いもの。なぜ形が違うのか。その疑問は、当時は言葉にならなかったが、心の奥に小さく沈殿していった。

広島では、圧倒的に俵形

戦後の広島では、圧倒的に俵形のおにぎりが多かった。大橋の母もまた「ご飯は俵でないと落ち着かん」と言い、幕の内弁当でも俵形に整えて詰めていた。直久は、その理由を聞くことはなかったが、形と土地の関係を、肌で覚えていった。

戦後の広島では、圧倒的に俵形のおにぎりが多かった。大橋の母もまた「ご飯は俵でないと落ち着かん」と言い、幕の内弁当でも俵形に整えて詰めていた。
▲戦後の広島では、圧倒的に俵形のおにぎりが多かった。
平成時代のコンビニでも続いた「俵」信仰

ちなみに、平成時代になっても、広島の握り飯の主流は俵形だった。握り飯なら俵形という土地柄なのか、コンビニの幕の内弁当でもご飯は俵形にして詰めないと、あまり売れなかったという。普通の詰め方のものも店頭に置いていたが、俵形のものが一番の売れ筋だった。

小学生時代

小学生になると、大橋は学校の社会科で日本各地の暮らしを学ぶようになる。東北の雪深い暮らし、関西の食文化。教科書の写真に映る弁当の中のおにぎりの形が、広島のものと微妙に違うことに、直久は気づいた。

「昔からそうじゃけえ」と母

その疑問は、単なる好奇心では終わらなかった。家に帰ると、母に聞いた。「なんで、うちは俵なん?」。母は少し考えてから、「昔からそうじゃけえ」と笑った。

答えになっていないその返事が、かえって直久の関心を強めた。

中学時代

中学に進学した直久は、図書室に入り浸るようになる。民俗学、郷土史、食文化。難しい本も多かったが、読み飛ばしながらでもページをめくった。

民俗学者・柳田国男が「三角形のおにぎりは心臓の形を象徴する」とした説を知ったとき、強い衝撃を受けた。形には意味がある。偶然ではない。その考え方は、少年の世界観を一気に広げた。

一方で、東北地方に多い太鼓形、関西で小さな三角形が好まれる理由について、食文化や生活環境から説明する記述もあり、「形は土地と暮らしの結果だ」という感覚が、直久の中で芽生えていった。

ノートに描いたおにぎり

授業中、直久はノートの隅に、おにぎりの形を描く癖があった。三角、丸、俵。形の横に、地域名を書き添える。教師に注意されることもあったが、本人はやめなかった。

そのノートは、後年、彼が「おにぎり研究家」と名乗るようになった原点だった。

高校時代

高校時代、直久はさらに研究を深める。修学旅行先で出された弁当のおにぎりを観察し、形を覚え、帰宅後に記録した。

山口県では、三角形、俵形、太鼓形、ボール形がすべてそろっていることを知り、「すべての形が交差する土地」として特別視するようになる。

また、「おにぎり」「おむすび」「握り飯」という呼び名の違いにも関心を持ち、言葉と信仰、都市と農村の関係にまで思考を広げていった。

進路よりも関心

周囲が進学や就職を意識し始める中、直久の関心は一貫して「なぜ人は米を握るのか」という一点にあった。

教師からは「趣味は趣味として」と言われたが、本人は内心で決めていた。これは趣味ではなく、自分の生き方そのものだと。

社会人として

高校卒業後、直久は一般企業に就職する。研究職ではない。だが、安定した収入は、彼に「全国を歩く」自由を与えた。

出張や私的な旅行のたびに、各地のおにぎりを観察した。青森、宮城、福島の太鼓形。中部・北陸のボール形。関西以西に集中する俵形。

それらを体系化し、後年「最も簡単に握れるボール形が原点で、そこから太鼓形、三角形へと進化した」という説を支持するようになる。

おにぎり研究家へ

やがて直久は、自らを「おにぎり研究家」と名乗るようになる。学界の肩書きはなかったが、現地調査の量と精度は、誰にも負けなかった。

焼き飯、目はりずし、コンビニの三角形。陳列効率と文化の関係まで視野に入れた彼の研究は、次第に新聞や雑誌にも取り上げられるようになった。

結婚と挫折

研究に没頭する一方で、直久は結婚もした。だが、生活と研究、家庭と個人。そのバランスを取ることは容易ではなかった。

「握りすぎたのだろうな」

後に彼はそう振り返る。人も、おにぎりも、力を入れすぎれば形を崩す。1985年、広島市役所の窓口で離婚届を差し出した日の出来事が、彼の人生に深く刻まれることになる。

その後の人生観

離婚を経て、直久の研究は変わった。形の分布だけでなく、「なぜ人は誰かのために米を握るのか」という問いへと向かっていった。

彼にとって、おにぎりとは文化であり、祈りであり、そして人間関係の比喩でもあった。

広島市職員「おにぎり君」との短い出会いは、その確信を静かに後押しした。人生は、握り直せる。そう信じるようになったのである。

おにぎり哲学の行く末

大橋の哲学において最も核心的なのが、おにぎりが示す人間関係の「距離感」である。

「考えてもみたまえ。他人がこれから口に入れ、咀嚼し、飲み込んで自身の肉体とするものを、あろうことか素手で、何度も圧力をかけて成形するのだ。これは本来、非常に暴力的な介入であり、同時に、究極の親密さの表現でもある。

赤の他人が握った黒ずんだおにぎりは食えたものではない。だが、愛する者や信頼する者が握ったそれは、どんな高級フレンチよりも尊い。

つまり、誰かのおにぎりを食べるということは、『あなたの手のひらに付着する常在菌ごと、あなたの存在を受け入れます』という、全人格的な受容の表明なのだ。昭和という時代は、良くも悪くも、他者との境界線が曖昧で、熱気と湿り気を帯びていた。その象徴が、素手で握られたおにぎりだったのだと、私は結論づける。」